13 July 2008

李纓『靖国 YASUKUNI』

Tさん


 こんにちは。丁寧で気持ちの入ったお返事、ありがとうございます。

 恥ずかしながら名古屋高裁の判決のことは不勉強で知りませんでしたので、さっき『週刊金曜日』を買って読みました。空自は多国籍軍の輸送を秘密でやっていたのですね。
 Tさんの、
『「画期的な判決」と歓ぶ護憲派も含めて市民の中にどれだけ”現在日本は戦争中の国 だ”と自覚しているひとがいるでしょうか。』
という一文には目を覚まされました。
 本当に、人々の意識・関心の低さがこういったことを引き起こしてしまうのですね。

 実は今日、映画『靖国 YASUKUNI』を観てきました。静岡で自主上映会があったのです。
 観ながら色々考えていたのですが、今日抱いた感想の一つに、「右翼も左翼も一緒だな」というのがあります。一緒に観た両親は右翼に対する批判めいたことを漏らしていましたが、僕は右翼を右翼としてしか見ないことは、何の解決にもならないと思います。「この社会は今のままで良いわけがない」「もっと良くしたい」という点においては右翼も左翼も同じなのです。
 ならばどうして違う考え方になるのか、どこで考え方が分かれたのか、考えるべきだと思うのです(しかし無数の動物の中で、どうしてヒトだけが思想・信条を持つようになってしまったんでしょう)。
 世界が全て右翼的な考え方で覆われることも、また逆に左翼的な考え方で覆われることも、永遠にありません。なぜならば、一つの事象を目の当たりにしたときに抱く感想や意見は、人の数だけあるからです。だったら共生の道を模索するのが、最も建設的な考え方だと思うのです。
 世界は白と黒、善と悪、右と左の二元論では説明できません。そもそも善も悪も右も左も相対的なもので、曖昧なものであると思います。被害者にも加害者にもイラクの人々にも思いを馳せるのなら、対立しがちな右翼の人たちにも想像を及ばせてやろうと思うのです。

 しかし、です。どんな理由があろうと、どんな大義があろうと、戦争はしてはいけません。人が死ぬからです。もっと正確に言おうと試みるならば、戦争は人が死ぬことを前提とした行為、つまり人を殺す行為だからです。
 どんな悪人であろうと殺してはいけません。何人殺した人でも、殺してはいけません。非常にデリケートな領域ですが、そこだけは譲りたくない、いや、譲ってはいけないような気がするのです。
 とするならば当然、先の戦争も肯定するわけにはいきません。
 たとえば僕が正当防衛で誰かを殺したとしても、「理由があったんだ」とも「俺は間違っていない」とも、ましてや「正義を実行したに過ぎないんだ」とも言いたくありません。法律で裁かれなかったとしても、一生その事実を背負って生きていくしかないのです。
 いや、しかし、そこを正当化してしまうのが人間が本質的に持つ弱さなのかもしれません。右翼とは、もしかしたらその責任を強く感じ過ぎてしまうが故に、自国の行為を正当化せざるを得ないところまで追い詰められてしまった、哀しいほど人間的な者たちの末裔なのかもしれません。
 「憲法違反?それがどうした」と開き直る鉄面皮には、「憲法違反したければするが良い。しかし、人を殺す行為に加担することは許すわけにはいかない」というのが、今の僕に言える精一杯の言葉です。つまり、「憲法が許そうが許すまいが、僕は許さない」。そういうスタンスです。そういう考えの集合体が、憲法であれば良いなと思います。

 平和ぼけ。実に贅沢な言葉じゃないですか。贅沢すぎて「平和の良さを忘れてしまう」という副作用もあるぐらいです。
 しかし、平和の良さ・有り難みを再確認するために戦争をするというのは、あまりにも短絡的すぎます。平和の良さ・有り難みを再確認するために僕らがするべきことは、先の戦争を顧みることです。そして真摯に、謙虚に受け止めることです。
 右翼も左翼もありません。一人ひとりの“人間”に過ぎないのです。違いを違いのまま、複雑さを複雑なまま受け入れること、そして想像力を常に働かせておくことが、戦争ゾンビを眠らせておくための最も効果的な道ではないでしょうか。

 知識も理論武装も無いまま、色々書いてしまいました。でもこれが、今日僕が抱いた等身大の感想です。もし、おかしなところ、お気付きのところがあったらご指摘下さい。
 もっともっと色んなことを知りたいです。もっともっと色んなことを感じたいです。こういう話をしてくれる人は僕の周りには少ないので、また色々と教えて下さい。

 それでは、冷えたり暑かったりジメジメしたりで過ごしにくい季節になってきていますので、ご自愛下さい。


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